Wednesday, October 10, 2007

Japanese Translation of Ninih's Life Testimony

私の証文

2007年4月19日

りきはきょうでちょうど3ヶ月になります。神様がこのところずっと私とともにいてくださっていることに、私がどれだけ感謝しているか、言葉に言い表せません。時々、りきがどうしようもないほど泣いているとき、りきが落ち着きを感じないところではどこでも、私は、神様が彼をなだめてくださるようにと、お祈りします。そして毎日、りきが病気にかからず健康に育つことができるようにとお祈りするのです。とりわけ大事なのは、彼には、自分の両親だけじゃなくて神様の言うこともきく、親切で平静心を保ち、明るくてかわいい人になってほしいということです。神様の導きの下で私たちの人生を歩むことは、人生で最も祝福に満ちた時なのでしょう。このことは、私がこの過去3年間で自分の人生観がどのようにこんなにも変わったのかを思い起こさせてくれます。子どもの頃からイエス・キリストを知っていたとはいえ、彼の愛と存在をもっと多く感じられたのは、私自身がすすんで心を開き、彼の愛や恵み、そして赦しを3年前に受け入れ、2年前に洗礼を受けてからのことです。天気のいい日に乳母車を押しながら公園を歩いていると、自分の人生の全てにとても感謝したくなるのです。時には、ものごとを当たり前のように思ってはいけないこともありますし、まるで明日がないかのように、私たちの人生の一つ々々の瞬間を価値あるものとするのです。何もかもが神様の御手のうちにあり、私たちは愛する人たちとの一つ々々の時間を宝のように大切にしなければなりません。神の愛と恵みを受けてイエスを人生の救い主として受け入れることは、大概の人たちにとっては難しいことかもしれません。私は愛するその人たちもまた、いつの日か、自らの心を開いてこのすばらしい神の恵みを受け入れられるようにと、その人たちのために祈るのです。最近になってこの恵みを実際に受けるまで、「アメージング・グレース」の歌詞がまったく分かりませんでした。この歌を歌うと自然に涙が流れ落ちるようになり、この恵みをまだ受け入れていない私の愛する人たちのことを思いました。

自分はどんなに変わったのだろう?と思いました。自分の人生で最もはっきりと自覚している変化は、ものごとについて以前とは違った見方をし、大きな平安を感じるようになったことです。この平安を感じる気持ちは、自分が体験することの中で最も報いの大きいことのうちの一つだと思います。どんなにお金持ちになっても、またどんなに頭が良くても、人生に本当の幸せをもたらすのは平安なのです。私は以前、仕事での地位を獲得して願わくばお金持ちになろうと、人生を生き急いでいましたが、でもどういうわけか、それらの目標は今ではもうどうでもいいように思えるのです。もちろん、生きていくためにお金は必要だとは思います。でも確かなのは、人生で失うものをお金で何も買い戻すことなどできないということです。未来に何が起きるか予測することなどできるはずがありません。だから、私は愛する人たち、それもとりわけ自分の家族とできるだけ多くの時間を費やすようにと、最善の努力をするのです。健康や富、幸せなど、人生には大切なことがまだまだたくさんあります。でも、永遠の命を得るというイエスの約束にある平安と確証を感じる自分たちの気持ちこそが最も大切なのです。私たちがこの世に生きている間に得る物質的なものはみな一時的なものに過ぎません。私たちは裸で生まれ、そしてまた灰になって死ぬのであり、何ももたらすことなくただ自分の肉体を失うだけです。けれども、私たちの霊が永遠に生きるのだと知ることによって、私たちは死後の人生を期待しつつ、この今ある人生を最大限に生かすことができるのです。私は最近、シンガポール出身の友達を失ってしまいました。彼女はこの過去7年間、がんと闘いましたが、4月10日、彼女は平安のうちにこの世を去って、主のみもとに帰りました。彼女が6ヶ月前にここ東京を訪れた時、彼女はまだ化学療法による治療の最中で、私も妊娠5ヶ月であったとはいえ、彼女の夫と彼女を東京で案内して多くの時間を過ごす機会をもつことができて、私は本当に幸せだと感じました。彼女はその頃完全に元気でしたし、彼女がこんなにも突然私たちを置いて去ってしまうなんて、誰にも予測できないことでした。彼女が残りの人生でしようとしていたことは、できるだけ多くの種を植えることであり、その種がいつ育つかはどうでもいいこと。大切なのはそれを後でではなくいま始めることだと彼女が言っていたのを、よく憶えています。たぶん、彼女が植えたこれらの種がその人たちの人生の中で育つのは、後になってからでしょうけれども、でも少なくともそれはすでに始まったのです。彼女はできるだけ多くの人たちにその人たちの人生における救いを得てほしいと願っていました。その人たちがイエスを自らの救い主として受け入れ、永遠の命を得られるようにするためです。彼女は自分がもう余命いくばくもないことを知っていたのではないかと私は思いますし、彼女は自分の夫が救われるようにしようと自らの最善を尽くしてもきたのです。そして奇跡的なことに、彼はごく近年になって変わり、イエスを自らの救い主として受け入れもしたのでした。私は、彼がイエスを受け入れて変わることなんてまさかと思っていました。彼が以前信じていた宗教のために、長いこと牛肉を食べてこなかったことは、私も知っていました。私が一番驚いたのは、彼が『癒しの力』という題名(正確な題名は憶えていませんが、でもそれは彼がこよなく大切にしている本であることは確かです)の小さな本を持ち歩いては、その本がどれだけよいかを示そうと、熱心にそれを私に見せていることです。この本を読むことで、彼は多くの確証や力、赦し、そして愛を神様から得て強くなり、彼の妻を支えるすべを身につけてきたのだと私は思います。彼の妻の健康状態を考えると、たぶん彼は自分の心の中で、この長い旅が自分の妻と一緒に行く最後の旅になるだろうとわかっていたのでしょう。

私の母はこの1月にがんであると診断され、私の家族はその真実を受け入れるのに苦心しました。その治療の間、私の母は多くの副作用に苦しみ、吐き気や疲れ、ひどい下痢を余儀なくされました。痛みがとても耐え難いものだったので、彼女は緊急治療室に何度か入っては入院しました。私は、自分の母のためにもっと祈るようにと、彼女と家族の両方を元気づけ、うながしました。たとえ彼女が痛ましい体験をしているとはいえ、私は、自分が神様を知っていることで、また神様が私の母を見守り続けてくださることを知っていて、幸運だと思います。私は自分の母をとても愛していますし、いつまでも私の母でいてほしいのです。神様の約束に信頼を置くことによってのみ、私たちは、イエスを救い主として受け入れて永遠の命を得るのでしょうから、この世であれ、主のみもとであれ、彼女がどこにいようとも彼女と一緒なんだと私は信じています。これによって、そのお返しに、私は大きな平安を与えられるのです。

もう一つ思っているのは、お金に関することは、ふつうなら私たちの日常生活の中でより多くの問題を引き起こすだろうということです。けれども、お金をたくさん持つことは、人生に大きな平安を得られるということを直接意味するものではありません。仕事を一生懸命する必要があることは私もわかっていますが、それでも、大切なのは、私たちが生まれたときから、神様がわたしたちのために定めてくださった目的を達成することです。なぜなら神様は創造主だからです。自らの発明したものが何を達成する必要があるのかを知っているのは、発明者だけです。もしかしたら、私たちが生まれてきたのは、偉大な歌手になるためかもしれないし、あるいはすごいビジネスをする人になるためかもしれません。でも、私たちがもっているそれらの賜物には、もちろんそれ自体の目的があるのです。祈りを通して、私は自分の心配事や人生における疑いをすべて伝えています。私は神様の導きをいつも求めます。いま、ちょっと一歩踏み出すこと。いつも感謝すること。私は、運もまた神様からの恵みだと信じます。もし私たちがお金持ちになるよう意味づけられているとしたら、運は私たちの前で自然に起きることでしょう。もちろん、だからといって怠けるとか何もしないというわけではありません。私たちはそれでも、何をするにせよ一生懸命働く必要があります。でも私たちがなすことやもつものすべてを神様にゆだねることによって、私たちは、自分たちのなすことにおいて、それが仕事であれ、義務であれ、雑用であれ、もっと多くの喜びと平安を受けるのだろうと、私は信じます。これによって多くの不必要なストレスや心配事もなくなるでしょう。なぜなら神様がいつもいっしょにいてくださることを、私たちは知っているからです。たとえ問題が起きても、きっと神様は、より大きなことに備えるために、私たちにそれを体験してもらう必要があるとお考えなのでしょう。物事にはすべて目的があるのだと私は思うのです。

これを読んでくれたあなたがた皆さんとこのことをわかちあえることを、本当にうれしく思います。神様があなたの人生のすべてを祝福してくださるようお祈りします。そして、イエスがあなたの心のドアをたたくとき、どうかあなたの心を開いてください。あなたの心を開いたところで、何も失うものはありません。私たちの心を閉ざし続ければ、そのほうがもっと高くつくだろうと思います。それに、神様の愛と恵みは無償で受けられるのです。そして、イエスを受け入れて信じることに懐疑的になったり、恐れたり、避けたりすることで、私たちはより多くのことを逃すことになるのです。イエスを私たちの救い主として受け入れることで、私たちは100パーセント確実に永遠の命を得られるのです。あなたが愛する人たちとずっと一緒に過ごしたくありませんか?私たちがこの世を去る時、イエスが私たちを本当の故郷へと迎えてくださるなんて、すばらしいことではありませんか?

教会での先週の説教で、私は多くのことを考えさせられました。そうです、もしイエスが復活しなかったら、キリスト教全体が空虚なものになってしまいます。そして受難日と復活祭の祝いもまた無意味なものになってしまいます。でも、イエスは彼が死んでから3日後に実際よみがえられ、彼は死んだ後に500人以上の人々によって目撃されたのです。もし私たちが懐疑的なままでい続けるのなら、たぶんそれは遅くなるのでしょう。だって、未来がどうなるかなんて、私たちにはわかるはずもないのですから。
私たちは予想外にも事故や健康上の問題を人生のある部分において経験するかもしれません。ですから、悔い改めるのをその時まで待つことはしないでください。だって、神様の恵みと赦しを今から受けることは、人生においてもっとも報いの大きいことなのですから。神様との関係を発展させることで、末永い愛と平安がもたらされるでしょう。それは、お金やどんな物質的なものをもってしても、買うことなどできないのです。

神様の恵みがあなたがた一同にありますように。そしてあなたの心が聖霊で満たされますように。

キリストの御名によって恵みのうちに

ニーニー:)

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